「私たちは健康的な人生観しか認めません」
という社会の風潮に、彼は異議を唱える。
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大学卒業から医師免許取得までの年数
(東大理Ⅲ卒業後、フリーター期間を経て)
東大医学部を卒業しながらも、すぐには医師の道に進まず、10年以上の歳月をかけて、あえて世間一般とは異なる道を歩んだ大脇氏。この異色の経歴こそが、彼に医学を外側から、そして内側から批判的に見つめる独自の視点を与えました。 単なる知識の習得に留まらず、人間性や社会のあり方といったより本質的な問いを追求する中で、彼の「健康から生活を守る」という哲学は醸成されていったのです。
問題提起:”健康”という名の不寛容と人間性の喪失
現代社会は「健康」を至上の価値とし、その追求の名のもとに、個人の楽しみや「雑然とした人間らしい生き方」を犠牲にしているのではないか。 健康という単一の物差しが、社会の寛容さを失わせ、人々の生活から彩りを奪い去る現状に、大脇氏は警鐘を鳴らします。
社会の寛容さの変化:喫煙率から見る規範の強化
数十年前、男性の喫煙率が8割に迫る時代がありました。当時は、タバコの健康被害が知られていても、個人の嗜好として広く許容される寛容な雰囲気が存在したのです。 しかし、現在では喫煙率は2割以下に激減。これは公衆衛生の進歩である一方、「体に悪いものは許されない」という規範が強化され、多様なライフスタイルへの許容度が低下していることを示唆しています。 大脇氏は、この変化が、単なる健康増進に留まらず、社会全体から「無駄」や「不完全さ」を排除しようとする傾向につながっていると見ています。
失われる「人生の豊かさ」:目的化された生活の空虚さ
夜更かし、だらだらスマホ、お菓子の食べすぎ、寄り道、あるいは友人との深夜の語らい。これらは「健康に悪い」という理由で切り捨てられがちですが、大脇氏はこれらこそが人間らしい「雑然とした生き方」を構成する要素であると強調します。 人生は、一つ一つは「そこまで重要ではない」と思えるような小さな楽しみや習慣の積み重ねで成り立っています。これらをすべて「健康」という目的のために最適化し、効率化しようとすることは、かえって人生を空虚なものにし、個人のアイデンティティを奪いかねません。 大脇氏は、健康や長寿を「生命の最大化」として追求するだけでは、「人生は何のためにあるのか」という根源的な問いへの答えが失われると警鐘を鳴らします。
「健康第一」がもたらす社会の歪み
過剰な自己管理
常に健康を意識し、ストレス増大
不寛容な社会
「不健康」な人を排除・批判する風潮
人生の空虚化
楽しみや人間らしい営みの喪失
コロナ禍における「ニューノーマル」の強制は、この「健康第一主義」が社会にもたらす危険性を如実に示しました。 手洗いやマスク、ソーシャルディスタンスといった行動が「当たり前」として徹底され、これに異を唱えることが困難な空気感が醸成されたのです。 大脇氏は、この経験が、健康を理由に個人の自由や社会的なつながりが容易に抑圧されうる脆弱な社会構造を浮き彫りにしたと分析します。
エビデンスの罠:「偽医学」の見抜き方と科学の限界
3万本以上の医学論文を読破した大脇氏は、医学的エビデンスが時に誇張され、誤って解釈されている「偽医学」の存在を指摘します。 私たちは「小さな効果」を「大きな効果」と信じ込まされ、不必要な努力を強いられているのかもしれません。 科学的知見が社会に伝わる過程で、どのように情報が歪められ、誤った「常識」が形成されるのか、そのメカニズムを解き明かします。
効果の誇張:減塩と血圧の例に見る実態
世間のイメージ
劇的な効果
実際のデータ
限定的効果
減塩が血圧を下げるという効果は広く信じられていますが、大脇氏の分析によれば、実際のデータが示す血圧低下効果や、脳卒中・心筋梗塞といった疾患の予防効果は、多くの人が想像するよりも遥かに小さいのが現実です。 研究結果の統計的有意性と、それが臨床的にどれほど意味があるかという「実用的意義」の間には、しばしば大きな乖離があります。 メディアや一部の専門家は、この「小さな効果」を誇張して伝えがちであり、結果として人々は不必要な努力や制限を強いられることになります。
「常識」が作られるまで:情報伝達の歪み
特定の条件下でのみ示された「小さな効果」
文脈を省略し、センセーショナルに報道。専門家も時に同調
「劇的な効果」があると誤解し、行動変容を促される
疑うことのない健康知識として社会に浸透し、規範となる
異なる選択をする人々への批判や排除
「毒」との向き合い方:リスクと個人の自由
大脇氏は、医学的に「やばい毒」であると認識されているアルコールについても、興味深い視点を提供します。 彼は、アルコールが健康に与える悪影響は確かながらも、「一生で飲める酒の量には限りがあるのだからありがたく飲め」という言葉を引用し、個人の選択の自由と、その行為がもたらす喜びや社会的価値を尊重する姿勢を示します。 これは、単にリスクを排除するだけでなく、その行為が人生にもたらす彩りや、人間関係の構築といった側面も考慮すべきだという大脇氏の哲学を象徴しています。 タバコや大麻といった他の物質についても、医学的見地から冷静にリスクを評価しつつ、社会の過剰な規制や、それが個人の自由に与える影響に疑問を投げかけています。 健康リスクと個人の幸福のバランスをどう取るか、という問いは、現代社会が直面する大きな課題の一つです。
新たな医療の哲学:ヒーローから裏方へ、そして社会の真の発展
大脇氏の哲学では、医療は社会の主役(ヒーロー)ではありません。人々の挑戦を支える「セーフティネット」、つまり裏方であるべきだと説きます。 医療が社会の目的そのものになり、主役の座を奪ってしまうと、社会は夢や発展を失い、停滞してしまうというのです。
真に豊かな社会の構造:医療の適切な位置づけ
(セーフティネット・基盤)
(イノベーション、文化、教育、インフラ)
(創造性、探求、人間関係、幸福追求)
大脇氏が描く真に豊かな社会とは、個人の多様な生き方や、夢、挑戦がその土台となり、社会全体が創造性や探求心に満ちた活動を活発に行うことです。 医療は、その活動が円滑に進むための「セーフティネット」であり、人々が病気や怪我で立ち止まった際に、再び社会活動へと復帰できるよう支える基盤としての役割を担うべきだと考えます。 医療が社会の目的そのものになってしまうと、すべてのリソースと関心が健康維持に偏り、本来社会が目指すべきイノベーションや文化的な発展、そして個人の自由な自己実現が停滞してしまうという、本末転倒な事態を招くのです。 例えば、月面着陸を目指すような壮大な国家プロジェクトや、新たな芸術を生み出す活動、画期的なビジネスモデルを創造する起業家こそが、社会の「ヒーロー」であり、人々に夢や希望を与える存在であるべきだと大脇氏は主張します。
次のテーマ:「ケア」と女性の役割:見過ごされてきた問題の根源
大脇氏の探求は、現代社会の根深い問題へと続きます。次に彼が焦点を当てるのは、高齢者介護や育児といった「ケア」が、女性の役割と過度に結びつけられ、それが自己目的化してしまうという問題です。 この「ケアの過剰」は、ケアを担う女性たちを疲弊させ、その結果、ケアされる側にも負の影響をもたらすことがあります。
「ケアの過剰」が生まれる悪循環と心理的メカニズム
「ケアは女性の仕事」という根強い通念や「良き妻・母・娘」像
ケアを通して自身の「女性らしさ」や「価値」を証明しようとする心理
相手のためだけでなく、自身の承認欲求や義務感から過剰なケアを行う
肉体的・精神的バーンアウト、そしてケアされる側の自立阻害や不満
「あなたのため」という言葉の裏で、ケアが自己満足の道具になったり、社会的な義務感から強いられたりするケースが少なくありません。 大脇氏は、特に高齢者介護の現場で、本人が「もう好きにさせてほしい」と願っているにもかかわらず、子供(多くは娘)が「親のためにできる限りのことをしたい」と過剰なケアに走り、結果的に自分自身を潰してしまう例を挙げます。 また、間違った知識に基づいたケアが、かえって逆効果になることもあります。 この根深い問題を解きほぐすことは、ケアを担う男女双方を不毛な苦しみから解放し、真に必要とされるケアのあり方を再構築するための鍵となります。 大脇氏は、ケアが特定の性別やアイデンティティと結びつくこと自体がおかしいという考え方を提示することで、より健全で人間らしい社会の実現を模索しています。